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Solo show "Pop"

Yuki Okumura "Pop"
@ Gallery Soap, Kitakyushu
April 21st to May 6th, 2007

Exhibited works include:

Loophole [version April 2007: Tokyo - Osaka - Taipei - Kitakyushu]
2006-2007 DVD 02:30, golf ball installed at entrance
loopholeApr2007

Black Bird
2007 DVD 02:00 (created in Kitakyushu)
BlackBird

Rainbow Release
2006 DVD 01:45, super-ball on plate
coffeehouse2

...and more!

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アート・オブ・ビデオ:世界の本質的虚構性とそこで生き延びる術について

 ビデオカメラの最も原初的な機能は、対象を「記録する」ことにある。記録された映像は、過去のある時点、ある場所において存在した世界を「複製」として保存/再現する。あの時あの場所で起こったことは、リニアな時間軸上ではすでに過ぎ去ってしまったもので、本質的にもう二度と手の届かないはずのものであるにも関わらず、複製としての出来事は、その物質性と反復可能性によってある種の永続性を獲得する。それは一方では、世界が一回的な性質を喪失し、編集可能な素材へと自らを転換するということでもある。 
 複製としての世界の編集可能性/可変性は、フィルムやビデオといったメディアが持つ、対象を、それを構成する様々な情報へと還元し、フレームの内に落とし込んで記録するという性質と結びついている。いわば映像とは世界をフレーム化して記憶する技術であるといえよう。複製された世界がフレームによって構成されているということは、そこにフレームの数と同じだけの「継ぎ目/ブランクな領域」が存在するということでもある。フィルムほど視覚的に明確ではないにしろ、デジタルビデオもまたフレームとブランクな継ぎ目とによって構成されていることは、撮られた映像を編集ソフトにかければ一目瞭然であろう。このブランクな領域こそが、編集の際に作家が介入するきっかけとなる部分であり、ブランクな領域によって切り刻まれると同時に繋ぎ合わされるフレームの配列が複製された世界の基本構造となる。

 奥村雄樹はここ数年、ビデオによって作られた複製としての世界が持つ編集可能性という特徴を巧みに利用し、ありふれた光景の中で虚構と現実とが交錯し合う映像作品を多く制作している。そこで作家は記録されたリアリティに編集という作業を通して入り込み、もともとの世界を構成する時間軸や空間軸の配置を分断し繋ぎ合わせることで、実際にはあり得ないにも関わらず、世界のあり様として認知可能なある種の状況を構築する。「Loophole」(今回は北九州や台湾でのシーンを追加した2007年バージョンが展示されている)では、ゴルフボールがはねたり飛んだりしながら穴にはまり込む/落ち込むシーンを繋ぎ合わせることで、ボールが空間から空間へ連続的に移動を続けているかのような状況が作り出され、「Supersonic」(2006年、ニューヨーク市に滞在中に制作された作品。今回は非公開。)では、くしゃみによって人間が実際にワープしているかのような状況が展開される。記録された映像そのものは、自然界におけるごくあたりまえの物理現象(ボールを投げた時に重力との関係で生じる物体の運動性であるとか、くしゃみという自然発生的な行為/現象)でしかないにも関わらず、それが編集されることで、当たり前のようでどこかおかしい、奇妙な時空間が構成される(*1)。

 誰もが当たり前と思っているようなことをそうではない仕方で提示する手法、言い換えればごく些細なレベルでの認識の裏切りを通して、ありふれた事象が持つ多様な側面を浮かび上がらせるようなアプローチは、奥村のこれまでの作品に共通する要素であるといえよう。一般的にきたないと思われているような身体パーツ(爪、陰毛、ツバ等)に、一見それとは分からないようなさりげない美しさを付与する一連の作品(それにしても、自分が作品制作の場に立ち会ったからということとは関係なく、「A Day in the Life of Spitting」のシリーズは本当に涙が出るくらい美しいと思う)と、現実的なものの内に虚構/嘘とが混在する複製世界を通し、私たちの認識や身体感覚に揺さぶりをかけると同時に日常の異なる様相を浮かび上がらせるような最近の映像作品には、作家の世界との対峙の仕方という点において共通する態度が見られる。
 それは一方では、対象(人間であったり自らの身体であったり世界そのものであったり)を、それを構成するより細かな単位あるいは要素に分解/還元し、その微細で取るに足らないように見える小さな部分に思考を依拠させる態度ともいえよう。一見遊戯性に溢れた作品であっても、そこには常にどこかミニマルで還元主義的な対象へのアプローチが垣間見える(*2)。
 重要なのは、この微細で取るに足らない部分であるとかありふれた現実のようなものに思考を依拠させるということと、それを元に、オルタナティブな世界像を再構築するという行為との決定的な差異である。奥村の映像の中の小さな現実には、私たちが当たり前のように受け入れているような日常の異なる様相を浮かび上がらせる要素や、それを通して世界との関係そのものがひょっとして変わったりするかもしれないと感じるような瞬間が含まれてはいる。しかし、それでも、世界と遊戯的に交わりながら、世界が別のものとして立ち現れてくるような瞬間を希求する態度と、オルタナティブな世界の像を作ったり提示しようとする行為とはやはり根本的に異なるだろう。いわば、このオルタナティブの不在性を抱え込んだ世界との交わりという観点と、それゆえの空虚さとクールさとが奥村の作品を特徴づけるものであるともいえる。奥村の作品にある、あまりに些細で現実的で、であるにも関わらずどうしようもなく虚構的な現れは、私たちがさしたる実感もないままに生きているこの世界のあり様を、どこか的確に映し出しているように感じるのである。


岩本史緒(in-between)

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*1:ちなみに、「Transfer」から「Supersonic」までの一連の作品が時空間の移動(=フレームからフレームへの移動)をテーマとしているのに対し、新作「Black Bird」は本来フレームの外に続いているはずの世界の存在を、編集によって消去するという点で異なるアプローチといえよう。普段、映像作品を見る際、私たちは暗黙の内に、フレームで切り取られた世界(それがノンフィクション的な性質を持つものであれ、明らかにフィクションの世界であれ)の外に延々と続く日常の光景を想定している。鳥がフレーム内を横切って飛んで行く時、私たちは、その鳥にはフレームに映り込んだ一瞬の外での生がある、と了解している(つもりになっている)。それをあえて切り取られたフレーム空間の内側に閉じ込めることで、奥村はフレームの外という概念そのものを消去し、映像世界とその外との関係をいとも簡単に転換しているかのように見える。

*2:ちなみに遊戯性も奥村の作品を形作る重要な要素であるが、彼にとってはもしかしたら還元主義的アプローチと遊戯性とは不可分なものなのかもしれない。一見とりつくしまもないように見えるのっぺりとした世界の表象を、ブロックを崩すように分解し、積み直してはさらに分解しながら、奥村は世界と交わる。


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